教えのやさしい解説

大白法 647号
 
種脱相対(しゅだつそうたい)
 種脱相対とは、大聖人によって初めて説かれた最奥深秘(さいおう じんぴ)の法門で、本因下種(ほんにんげしゅ)仏法と本果脱益(ほんがだつやく)仏法とを比較(ひかく)相対するものです。

 三益
 三益とは下種益・熟益・脱益のことです。
 仏法では、仏が衆生を化導(けどう)し、成仏に導く過程を三益として明かしています。
 下種益とは、仏が衆生の心田(しんでん)に仏種を植えることをいい、熟益とは、下種した仏種を成長させ、機根を調熟(ちょうじゅく)させることをいい、脱益とは、下種された仏種が実び、収穫すること、すなわち得脱して仏果に至ることをいいます。

 聞法(もんぽう)下種・発心(ほっしん)下種
 この下種には聞法下種と発心下種の二意があります。聞法下種とは、仏が初めて衆生の心田に仏種を植えることで、根本の下種です。これに対して発心下種とは、聞法下種によって植えられた仏種が、仏の化益によって芽を出すことであり、修行の始めをいいますから、熟益の始めに位置します。

 文上(もんじょう)脱益と文底(もんてい)下種
 本門『寿量品』には「文上」と「文底」があり、「文上」とは釈尊か説かれた文面(ぶんめん)の教えをいい、「文底」とは奥底に秘し沈められた教えをいいます。
 文上脱益とは、久遠に下種を受けた衆生(本已有善)が、中間(ちゅうげん)三千塵点劫(じんでんごう)を経て、爾前経(にぜんぎょう)・法華経による調熟の後、本門『寿量品』の教説を聞き、その観心境界において久遠元初(くおんがんじょ)の聞法下種を悟って得脱したことをいいます。これに対し文底下種とは、久遠の下種を受けていない衆生(本未有善)が、末法において初めて『寿量品』の文底に秘沈された南無妙法蓮華経の下種を受けて、信心境界のもとに凡夫のまま即身成仏することをいいます。

 教主の相違
 この文上脱益と文底下種は、釈尊の在世と末法における本已有善(ほんい うぜん)・本末有善(ほんみ うぜん)の二機という相違のみではありません。種脱には教主(仏)と法という法体(ほったい)の相違があるのです。
 ます教主の体異(たいい)を述べると、脱益の教主とは、三十二相・八十種好に荘厳された『寿量品』の教主たる久遠実成(じつじょう)の釈尊をいい、この教主を本果脱益の仏、または本果妙の教主ともいいます。
 この教主釈尊は、出世の本懐として説かれた法華経『寿量品』によって、久遠に已に下種し、調熟してきた本已有善の衆生を成仏解脱(げだつ)させました。
 これに対し、下種の教主とは久遠元初の仏をいいます。この仏は久遠元初において、凡夫の身そのままで即座に悟りを開いた名字即(みょうじそく)の本仏であり、久遠元初の自受用報身といいます。
 『本因妙抄』に、
 「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(御書 一六八〇n)
と教主の相違を明確に示されています。
 つまり「熟脱の教主」とは、衆生の機根に応じて色相(しきそう)を荘厳し、熟益・脱益の法を説く垂迹(すいじゃく)の仏で、『寿量品』文上の釈尊をいいます。そして「下種の法主』とは、凡夫即極の悟りの境地をそのまま説く久遠元初の本仏であり、本末有善の衆生を救済するため、末法に出現された日蓮大聖人をいうのです。

 教法の相違
 大聖人は『開目抄』に、
 「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(同 五二六n)
と仰せられ、また『観心本尊抄』に、
 「彼は脱(だつ)、此は種(しゅ)なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此(これ)は但題目の五字なり」(同 六五六n)
と、釈尊在世においては文上の『寿量品』を中心とした一品二半が本果脱益の法となり、末法においては寿量文底に秘沈(ひちん)された題目の五字が本因下種益の法となることを明示されています。つまり『寿量品』の文底に秘沈された真実の事の一念三千とは本因下種の南無妙法蓮華経であり、この大法こそが末法の一切衆生を成仏に導くのです。

 末法出現の御本仏と流布の法体
 釈尊は法華経『神力品』で、結要付嘱(けっちょうふぞく)をもって文底本因下種の妙法蓮華経を上行菩薩に託されました。その上行菩薩の再誕として末法に出現されたのが日蓮大聖人です。大聖人は私たちと同じ凡夫の身をもって末法に出現されましたが、その本地(ほんち)を明かせば、久遠元初の自受用報身如来にましますのです。
 『本因妙抄』の、
 「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時(こんじ)の日蓮が名字即の身に移せり」 (同 一六八四n)
との仰せは、久遠元初名字即の本仏たる釈尊と末法出現の日蓮大聖人とが、その位と修行において同一であることを意味するのです。
 そして『経王殿御返事』に、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(同 六八五n)
と仰せのように、日蓮大聖人は一切衆生の成仏の法体として、文底下種の南無妙法蓮華経を本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊として御図顕されたのです。

 種脱判に迷う他門日蓮宗
 種脱判に迷う他門は、大聖人の本地を単なる上行菩薩と決めつけ、下種仏法の御本仏と拝することができません。これは唯授一人の血脈相承に基づく正義がなかったためです。
 この正義が伝えられているのは、日蓮正宗しかありません。そしてそれを他に伝えられるのは、私たち日蓮正宗の僧俗しかないのです。その使命を自覚し、「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向けて、共々信行に邁進してまいりましょう。